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2021.6.1

「与えられた称号ではなにも変わらなかった」ミスジャパンが語るキャリアとご縁

国際的なミスコンでの優勝やパリコレへの出演を経験し、現在は世界5大ミスコンテストであるミス・スプラナショナルのオーガナイザーやミス候補生のコーチングを務める長嶋里沙さん。
親孝行がきっかけとなった最初のミスコンから現在のキャリアに至るまで、人の縁がつないできた目まぐるしい人生の一部を伺いました。

⻑嶋 里沙 (ながしま りさ)

群馬県生まれ
大学卒業後パリ、ミラノへ渡航。パリコレ出演後、世界五大ミスコンテストであるミス・スプラナショナル初代日本代表となる。世界大会top25にランクイン。現在は海外モデル経験や世界大会の経験を活かし、2018/2019ミス・スプラナショナル東京、神奈川大会オーガナイザー兼総合プロデューサー、2019年よりミスター・スプラナショナルジャパンのナショナルディレクターを務める。

母の言葉を思い出し応募した最初のミスコン

ー幼少期からモデルになろうと思っていましたか?

そこまで明確には考えていなかったんですが、小さい頃から土屋アンナや冨永愛といったかっこいい女性が好きでした。小学校3年生で転校した時には、初日から革ジャン革パンにランドセルのオールレザーコーデで登校して「はじめまして!長嶋里沙です」と挨拶したのを覚えています。その頃から身長が高くて、スカートが短くなってしまうのが嫌だったんですよね。
母は、そんな私を見て「里沙は背が高いから、将来はモデルか宝塚を目指してほしい」とよく言っていました。でも、そのころは「表に出るの苦手だな」と思っていたので、今の状態は全く想像していませんでしたね。

ーお母さまが今の活動に大きく影響しているんですね

そうですね、ただ母とは仲良し親子というわけではなくて、心のどこかで「分かり合えない」という感覚がずっとありました。母はいわゆる「天然」と言われるようなおっとりした性格の人。自分で自分のことを決められないし、大切なことを相談しても「ママは、りっちゃんの幸せを願っているからね」としか言わないんです。
だから「自分だけはちゃんとしないと」といつも気を張っていました。
中学高校時代は、強豪のハンドボール部で全国大会に行くほどに熱心に取り組みましたし、勉強もかなり真面目にやっていましたね。

その後、両親が離婚したタイミングで母の精神衛生が心配になってしまって。何ができるか考えて、色々手を尽くして実行してみましたがどれも上手くいかなくて。不甲斐ない結果が続き、自分自身辛い日々を過ごしていました。
その時に、母が私に対して「モデルになって欲しい」と言ってたことを思い出したんです。もう何を言ってもダメなら行動で示そうと思って、初めてのミスコンに応募しました。それが大学3年生の時ですね。

ミスの称号を手に入れても何も変わらなかった

ミスコンに出場するといっても、その時にあったのは気合だけで笑
大会によって様々ですが、私が出場したミスコンはまず地方大会があり、そこで優勝すると日本大会に出られるというものでした。私は群馬と神奈川の地方大会に出たんですが両方優勝できず…
そうなると本来は日本大会にも出られません。ですが、大会事務局の方が違う県の代表として出ないか?とオファーをくださって、日本大会に出場できることになりました。特例ですね笑
日本大会には、母も呼びました。

ーお母さんはどんな反応でしたか?

私がランウェイを歩いているところを見て喜んでくれたし、私も母に感謝の言葉を伝えられた。それでも、置かれていた状況は全く変わりませんでした。そうすると私もだんだんと病んできてしまって。

今度は、母のためじゃなくて自分のためにコンテストに出ようと思ったんです。
その時に出場したミスコンで、ミスジャパンの称号をいただいて、日本代表として世界大会に出場しました。

世界大会では、世界中のミスと一ヶ月くらい共同生活を送るんです。私が出場した年はポーランドが開催国でした。毎日リハーサルやテレビの取材があって、食事の席ももちろんみんなで一緒に。「私これ食べられないわ」と残しちゃう人や「このポジションは納得できない」と言って帰っちゃう人など、本当にいろんなミスがいましたね。もちろん素晴らしい人格者やユニークな経歴のミスも大勢いて、私の人生において世界中の志ある女性たちと友人になれたことは宝物です。今でもやり取りをしていたり、世界情勢が厳しい中励まし合ったり、一生の友人が各大陸にできることはミスコンならではの良さだと思います。

結果として、多くの方々のサポートや応援のおかげで世界大会ではtop25にランクインすることができました。帰国後もお祝いのメッセージをいただき、嬉しさはもちろん、人との繋がりの素晴らしさややり遂げる大切さを身を持って経験できました。しかし正直なところ、達成感よりも「結局何も変わらないんだな」という感覚の方が強くて。精神面や環境は変わるけれど、ミスの称号を持っているだけでご飯が食べられるわけではないし、世界大会の次のステップアップは自分の力で作っていかないといけない。
それに日本代表になれたのは、その役割を与えてもらったからこそ。
もちろん自分のために出場した大会で、結果も残せて、良い経験でしたが、与えられた称号や立場も大切にしつつ自分自身で生み出したものにも確信と自信を持たないといけないということを本当に実感しましたね。

ー世界大会の後、理想とするキャリアや将来像は持っていましたか?

それが全く何も考えていなくて!ラーメン屋のバイトとして毎日野菜をマシマシに盛ってました笑

ーえ、すごく意外です

はじめてのミスコンが終わった時、ちょうど大学3年生で就活の時期だったんですが、なんか嫌になっちゃって。
黒髪じゃないといけないとかスーツを着なきゃいけないとか、全部理由がわからないじゃないですか。納得できないことをやるのがどうしても嫌だったんです。
結局就活しないまま大学を卒業して、ラーメン屋のバイトとラコステのショップ店員を掛け持ちして働いてました。ラーメン屋で働いていたのは、シフトの融通が効くのとラーメンが好きだったからです。ラコステはヨーロッパのブランドなので海外に行った時の話のネタになるかなと思って。

ミスコンの世界大会は、バイトのおやすみをもらって行ってただけなので、日本に帰ってきた後は「おやすみありがとうございました〜、ただいま〜!」という感じでしたね笑

ヨーロッパのエージェンシー巡りと門前払い

ある日、ラコステやラーメン屋で働いて貯めたお金を全部おろしてユーロに変えてフランスへ飛びました。
誰のためでもない、自分のための目標を立てたいなと思って、「海外でモデルをやってパリコレに出よう」と決めたんです。
その時は3週間ほどの滞在でしたが、まさに道場破りのように、様々な人の助けもありかたっぱしからモデルエージェンシーを巡って自分を売り込んでいって。
でも、フランスのファッション業界は身長制限が厳しくて、少なくとも175cm必要で、理想とされるのは178。私は173cmだったので、どこでも小さすぎると言われて門前払いでした。
途中でやけになって、リュックにボトルのワインを突っ込んで飲みながら歩き回ってましたね。水よりもお酒が安い土地なので笑
その時のヨーロッパ滞在が直接お仕事につながることはなかったんですが、イタリアの事務所が唯一好感を持ってくれました。負けようと思えばいくらでも負けられる突拍子もない環境に身を置いて踏ん張ることの方が、常に負けちゃいけないプレッシャーと戦うよりも自分に合っていることに気づきました。

そして帰国してからは、またラーメン屋で湯切りをしていたんですが、いろんなご縁が奇跡的に重なり、パリコレのモデルとして推薦いただいて、あれよあれよという間にランウェイを歩いていました。

ーそんなことが!
そこからはモデル業一筋でやっていったんでしょうか?

いえ全然!
想像していたよりも早くパリコレを歩いてしまった経験できたことで、燃え尽き症候群みたいになってしまって…あくまでもパリコレは目標のひとつであり、次は別のなにかを達成しないといけない焦燥感に襲われてしまいました。
パリコレの後、いくつか海外のショーに呼ばれてランウェイを歩いたりもしたんですが、日本に帰ってきてからは何もしないで引きこもっていました。朝起きてから夜寝るまでYouTubeとニコニコ動画を見る日々…

その頃本当に何をしたらいいのか分からなくて、自己啓発本を読んだら「何かしたくなるまで何もしないのがいい」って書かれていたんです。だからその通りにしたんですけど、4ヶ月くらい何もやりたくならなくて。
でも、このままじゃお金がなくなっちゃうばかりだしと思って、何もしたくなかったんですが仕方なく外に出ました笑

恩を返すつもりで取り組んだミスコンの運営

ーそこから現在のアクティブな里沙さんのキャリアにつながっていくんですね

そこからの展開も本当に人の縁で。
私がミスジャパンの称号をいただいた大会「ミスプラスナショナル」で、2019年から地方大会を開催することになったんです。そこで運営の方に「里沙向いてそうだね」って言われて、その勢いのままに大会のオーガナイザーを引き受けることになりました。
裏方の仕事をやる中で、ずっと親のためとか周囲の期待に応えるために頑張ってきたからこそ、自分のやりたいことをやるぞって思って色々挑戦してみたけど、結局誰かのために頑張る方が向いてるんだなって気づいたんです。
でもめちゃくちゃしんどかったですね。今までほとんど触ったこともないPCを使ってスポンサー資料を作ったり、とにかく電話をかけて営業したり。
最初は、Googleで「営業 何」で検索して調べる、みたいなレベルです。
しかもオーガナイザーの仕事は給料が出るわけでもなくて、客観的に見たら自分がマイナスにしかならないボランティアの究極体みたいなもの。多分、お金を稼ぎたいという気持ちより、恩を返さなきゃって思いの方が強かったからできたんですよね。
今まで自分を応援してくれた人に、「こいつ成長したな」って思ってもらえるようなことをしたいなって。

求められるものが自分のやるべきこと

ー今はどんな事業を軸にしているんですか?

ミスを目指す女性たちの育成やモデル業を軸に、キャスティングの相談をいただくこともよくあります。
あとは、新規開業するカフェの内装を作ったり、ラーメン屋の立ち上げをお手伝いしたこともあります。

ーえ、ラーメン屋の?

自分の得意なことやできることって、自分でわからないじゃないですか。
だから、自分はこうありたいって頭でっかちに考えるより、人から求められていることをやったほうがいいなって。私、自分のことを本当にスーパーラッキーガールだと思ってるんです。本当に運だけで生きてるといっても言い過ぎじゃないくらい…壺とか水とか売らないですよ笑
でも、何かアクションを起こしたら絶対にそれを見てくれてる人がいて、また違うご縁につながっていくと確信しているんです。

何かを変えたいと願う女性たちを育てること

ーミスの育成も「縁をつなぐ」一つのあり方なんでしょうか?

そうだと思います。指導といっても、人と人の関係性ですし当然うまくいかないこともあります。レッスンして、プライベートな相談に乗って時には説教をして…
でも、難しい瞬間も含めて楽しいですね。
私のもとへやってくる女性は、やはりミスを目指している時点でまだ何者でもないし、何者かになりたいと思っている誰かなんです。10代から30代まで、銀行員も保育園の先生も派遣社員も学生もフリーターもいろんな人がいる。
過去の私も彼女たちと一緒で、ミスの称号を手に入れれば何かが変わるはずだと思っていました。だからこそ「与えられた称号では何も変わらなかった」という私の経験について、一番最初に伝えます。それでも何かアクションをしたいと思う人が残りますね。

ー具体的には、どんな指導をするんですか?

ウォーキングなどモデルとしてのスキル的な面はもちろんですが、自分の言葉で自分のことを伝えられることがとても重要なので、そこの指導はきちんとします。例えば、「今日のメイクのポイントを教えて」と言った時に、瞬発的に自分の言葉を組み立てて話すことができるか。
ミスコンに関係のないことのように思われるかもしれませんが、そういうちょっとしたことが顔つきの違いとして出るんです。

ー里沙さんがミスの育成をするモチベーションはどこから来ているんでしょうか?

基本的に、誰かのよくないところを客観的に指摘してアドバイスすることって、面倒くさいし気持ちの良いことではないですよね。相手から嫌われちゃうリスクもあるし。でも、自分のことを思って時には厳しい言葉をかけてくれる人がいたからこそ、今私はこうしていられると思っているから…
ミスコンで優勝することを目標にするのはいいですが、目的にしてしまうのは違う。数年前には何も知らなかった私にたくさんのことを教えてくれた人がいたように、ミスの指導を通して、「良い循環を作っていく側」になりたいんだと思います。

(取材・文章 郷田いろは)

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